卑弥呼の墓か? 奈良県・箸墓古墳に初の立ち入り調査



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今なお、その所在地を巡って「畿内説」と「九州説」に分かれて歴史学者たちの議論の続く邪馬台国(やまたいこく)ですが、このほど、奈良県にある”卑弥呼(ひみこ)の墓”とも言われる箸墓古墳に、初めてとなる立ち入り調査が行われました。

●今なお謎の残る邪馬台国とは?

邪馬台国は2世紀から3世紀にかけて、日本列島にあったとされている国で、当時日本列島にあった他の国々(倭国と称される)の連合の都があったとされています。

邪馬台国に関する詳細な記述は、中国の歴史書『三国志』の一巻、『魏志倭人伝』に見ることができます。

西暦2世紀ごろ、日本列島では倭国同士の大規模な騒乱(倭国大乱)が起こり、邪馬台国もその騒乱に巻き込まれました。

卑弥呼という女子を王に立て、ようやくその騒乱は鎮静化します。

弟の補佐を得た女王卑弥呼は、使節を当時中国最大の勢力であった魏に派遣、『親魏倭王』の称号を得ました。

卑弥呼の没後、男王が後を継ぎましたが国内の情勢が収まらず、結局壱与という女子が王の地位につくことで騒乱を抑えることができたとされています。

『魏志倭人伝』を始めとする複数の中国の史書に邪馬台国、もしくは邪馬台国と思われる国に関する記述を見ることができますが、いずれもその表記に曖昧な点が多いことから、邪馬台国が日本のどこに存在したか、特定することは困難です。。

邪馬台国がどこにあったのか、その論争のきっかけとなったのは江戸時代後期、新井白石の記した書籍がきっかけでした。新井白石の記述にあった『畿内説』(京都・奈良周辺)に対し、国学者・本居宣長は邪馬台国を後の大和朝廷とは無縁の、九州にあった小国だと唱えます。これが現在の『九州説』の元になっています。

邪馬台国の位置に関する論争は、今だ結論がでない問題として学者たちの議論の的となっています。

今回立ち入り調査が行われた箸墓古墳が、もし本当に卑弥呼の墓であれば邪馬台国畿内説を裏付ける有力な証拠になるでしょう。

●箸墓古墳は本当に卑弥呼の墓なのか?

箸墓古墳国内最古の巨大前方後円墳とされています。

皇室の陵墓と考えられていることから、これまで発掘調査はおろか、立ち入り調査も禁じられていました。

今回の調査では日本考古学協会の調査員たちが墳丘の縁辺部に立ち入り、その周囲を歩いて調査が行われました。

周辺を歩いて回るだけの調査には、どれほどの意味があるのか、疑問を提示する声もありましたが、実際の調査では墳墓が築造された当時の状態のまま並んでいる葺き石(ふきいし)が発見され、墳墓全体が石で覆われていた可能性が浮上するなど、それなり成果を挙げることができたようです。

昭和40年代に宮内庁による調査が行われた際も、石室のある後円部の頂上付近に大量の石材が築造当時のままの状態で発見されており、この事から箸墓古墳は現在に至るまで未盗掘のままの状態で保存されている可能性が高くなりました。

後円部外側からは橋のような構造の柱が立っていた穴も発見されています。

これは天皇級の重要人物であった被葬者を運び入れた橋の後とも、祭祀を執り行った舞台とも考えられていますが、真相は判然としていません。

今回の調査では被葬者が誰であるかを特定するような発見はされませんでしたが、大阪府立飛鳥博物館の館長は今回の調査を高く評価し、「古墳祭祀を考える上での極めて重要な成果」と語っています。

●おわりに

結局、卑弥呼の墓であるかどうかの証拠は見つからなかったようですが、今後の研究の成果が待たれるところですね。

 

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